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みなと文化とは?
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みなと文化とは?

交易による流通市場の形成によって育ってきた「みなと文化」

船による交易が進むと、港で扱う物資の流通に様々な人が関わってきます。例えば、海運業、廻船を周旋する問屋、卸売り(商人)、保管業、加工業等、物資の流通を支える様々な産業が興り、流通市場が形づくられます。

このような流通産業に関連した産業や、当時築造した倉庫などの建物等が現在も残っているところも少なくありません。ここでは、「飫肥杉で賑わった油津」についてみていきます。

〜飫肥杉の積出港として賑わった油津の流通産業〜

油津は古くから天然の良港として知られ、「油之津」、「油浦」の古名で、遣唐使の時代には、日本と中国をつなぐ中継地として、中世には倭寇の拠点、そして戦国時代には南蛮貿易の寄港地と海外との交易で港は非常に活況し、その名は中国やポルトガル等海外に広く知られていました。

江戸時代の鎖国によって海外交易が閉ざされましたが、飫肥杉の積出港として再び油津は活気づきました。

古くから飫肥地方の山林は松材や楠などの大材が多く造船材の産地として知られていましたが、江戸時代になって海運が発達すると、廻船の建造需要が高まり、浮力があり曲げにも強く、樹脂の油分も多い飫肥杉は造船材(弁甲材)として、さらに注目を浴びました。

飫肥藩では財政を補うために、江戸初期より植林が行われていましたが、後期には領民の協力も得ながら大規模な植林が行われ、旺盛な需要に対応しました。

これに伴って、当時の飫肥藩主伊東祐実は、山地から港までの木材の輸送効率を高めるために、町の北側を流れる広渡川と集散地である油津港を結ぶ「堀川運河」の掘削を命じ、1683(天和3)年から2年4ヶ月の歳月をかけ、1685(貞享3)年に竣工させました。

運河開削前から造船材として杉弁甲材や楠材などを、堺や瀬戸内海沿岸の播磨などに搬出していましたが、開削以後は一層、造船材としての飫肥杉弁甲材の信頼性は高く、飫肥林業の振興に大きく寄与し、播磨を中心とした瀬戸内海沿いの造船地はもとより、台湾や朝鮮半島、中国まで積み出され、このような活況が昭和20年代まで続きました。

堀川運河の両岸は飫肥杉の貯木場として利用され、運河沿いには弁甲材とする木材加工場が立地しましたが、護岸は河野家や川越家などの木材商人によって石積みで築造され、木材のあげおろしの石段やスロープ等が設けられました。

飫肥杉の積み出し港として賑わった油津には、飫肥杉や廻船問屋で富を得た豪商らの倉庫や別荘、旅館などの建物、堀川運河をはじめとする飫肥杉の運搬などに用いた橋などの土木構造物が今なお残っており、これらの建物や構造物の多くは、国の登録文化財に指定されています。

また、山から切り出した飫肥杉材(弁甲)10〜12本を組んで筏にして何連もつなぎ、小舟で引いて運河を下る「弁甲筏流し」は1996(平成8)年から復活し、観光の目玉にもなっています。

堀川運河と堀川橋

堀川運河と堀川橋

堀川運河護岸

堀川運河護岸

弁甲筏流し

弁甲筏流し

油津赤レンガ館

油津赤レンガ館

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