ホーム > みなと文化とは? > 海上輸送に適した地の利によって発展した灘の酒造業

みなと文化とは?
一般財団法人みなと総合研究財団

〒105-0001
東京都港区虎ノ門3丁目1番10号
第2虎の門電気ビルディング3・4階

TEL:03-5408-8291 FAX:03-5408-8741 / 03-5408-8747 WAVEトップページはこちらから

みなと文化とは?

航路ネットワークを利用した地場産業の発達によって育ってきた「みなと文化」の例

江戸時代以降の全国的な商品経済の発展に支えられて、これまで地域で生産消費されていた地場産業も商品流通の中に組み入れられ、大きな発展を遂げます。

例えば、造船業、海産物加工業、酒やしょう油等の醸造業、製塩業等であり、「みなと文化」としては、こうした産業の生産活動や産業技術等が該当します。ここでは、「清酒の生産地、灘」についてみてみます。

〜海上輸送に適した地の利によって発展した灘の酒造業〜

清酒の生産地「灘」は、現在の神戸市兵庫・中央・灘・東灘区から西宮市今津までの沿岸を指し、江戸時代に「灘五郷」(下灘郷・西郷・中(御影)郷・東(魚崎)郷・今津郷)を形成していました。

「灘の生一本」として全国的にその名が知られている灘酒ですが、その歴史は古くはなく、江戸中期以降とされています。

政治経済の中心が江戸に移り、酒が大量に消費されるようになった江戸時代元禄(1688〜1703年)の頃には、江戸に送られた酒造地は伊丹などが中心で、灘の地域は含まれていませんでした。

そもそも酒造りの歴史は古く、「延喜式」には製造方法が記され、平安時代には現代とほぼ同じような製法で造られていたとされますが、大衆に親しまれるようになったのは江戸時代です。

酒の原料である米は主食であり、限られた収穫量の中で酒造りにまわす米の量に幕府の制限があり、1657(明暦3)年には酒株が発行され、酒造人を限定し、酒造りで消費できる米の量の上限も決められる制度が進められました。

「灘」酒造業の躍進の契機となったのが1754(宝暦4)年に、酒造家に対して酒造米の買い上げを奨励した「勝手造り令」であり、酒造株を持たない新規営業者でも届け出れば酒造りが許可される、今でいう、規制緩和でした。

この機に在方の商業等によって資本を蓄積した灘の商人や地主が酒造業に資金を投資し、江戸積み酒造業に進出しましたが、発展した要因はそれだけではなく、(1)宮水の存在、(2)良質な米の確保、(3)丹波杜氏の存在、(4)海上輸送に便利な場所等、酒造りとして適していたことが指摘されています。

(1)は夙川(西宮)の伏流水である宮水の湧出を発見し、良質で豊富な原料用水が確保できたこと、(2)は後に酒米として有名な「山田錦」となる、丹波や吉川地方で良質な酒米を大量に確保できたといった原料素材に恵まれていたことです。

(3)は近隣の丹波篠山地方から冬期の農閑期に出稼ぎで酒造りにくる技術力の高い丹波杜氏の存在であり、人的資源に恵まれたことも要因としてあげられています。

そして、(4)は大消費地江戸に重い酒を海上輸送するのに便利な海岸近くに醸造場を築いたことであり、兵庫の津などから「樽廻船」によって大量輸送ができました。

その結果、江戸に運ばれる酒を「下り酒」といい、高級酒として珍重されましたが、江戸に入る酒の7〜9割は「灘」を含めた上方からのもので、その半分は「灘」の酒といわれていました。

「灘」には現在も、灘五郷を本拠地とする酒造メーカーの他に、京都の松竹梅、滋賀の道灌など各地の酒造メーカーが軒を連ねています。

阪神・淡路大震災(1995(平成7)年)により、白壁の土蔵造りの酒蔵などの伝統的な景観が失われましたが、現在も日本一の酒造業地帯となっており、仕込みの時期には新酒の香りも漂い、環境省のかおり風景100選にも選ばれています。

灘五郷

〔出典〕灘五郷酒造組合・水資源委員会HP

Page Top